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従八位勲八等白石廣造墓 [2020/12/27 02:49] – admin | 従八位勲八等白石廣造墓 [2025/03/03 20:17] (現在) – admin | ||
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=== 和訳 === | === 和訳 === | ||
- | 白石廣造は豪傑の人でした。常に「富國強兵、宣揚皇威」を信念としていました。 | + | 白石廣造は、豪胆で優れた人物であり、常に「国を富ませ、軍備を強化し、皇威を広める」ことを念頭に置いていた。彼は産業を発展させる方法を広く研究し、それを陸・海の事業に応用して、社会に利益をもたらすことに多大な貢献をしました。その功績が認められ、明治43年11月(旧暦10月21日)に朝廷より藍綬褒章を授与されました。その功績を記した文書には、次のように述べられています。 |
- | 殖産興業の方法を海や陸に探し求め、たくさんの事業を施したため、その貢献は極めて多いことが伝わっています。 | + | |
- | 明治43年11月(旧暦10月21日)には、朝廷より藍綬褒章を賜りました。その功績状によれば、度量が広く、また商・工業発達のために航路の開発を志していたといいます。 | + | 「白石廣造は、生まれつき度量が大きく、商工業の発展には交通の利便性が必要であると早くから見抜いていた。明治5年、陸前国石浜に移り住み、運送業に従事した。人々を呼び寄せ、倉庫を建設し、東京・三陸・北海道を結ぶ定期航路を開設し、地域の振興を図った。また、自費で陸羽間(陸奥国と出羽国を結ぶ地域)の道路を整備し、貨物の輸送を円滑にし、海産物の販売を促進した。その結果、地域への供給が改善され、鰹節の製造方法を改良してその価値を高めた。さらに、松島湾の漁業組合を結成し、その組頭(代表)となって、昔から続く漁業の争いを解決し、魚の増殖を図った。また、牡蠣の養殖を奨励し、遠洋漁業を計画して漁民の生活を支えた。その他にも、肥料の輸入、蚕業の改良、米の普及、教育の振興、学校の設立とその基本財産の確保など、多くの分野に尽力し、公共の利益を大きく向上させた。その功績は顕著であり、これを称えて藍綬褒章を授与することとする。」 |
- | 明治5年には、陸前の国の石浜に2年間移住して、運送業につき、住民を呼び寄せ、倉庫を造り、関東京三陸北海道間の定期航路を開拓し、地方の振興をはかりました。 | + | ああ、まさに名誉なことでしょう。 |
- | また私財を投じて、陸羽間(陸奥国と出羽国)の道路を整備し、貨物の輸送、海産物の販売、地方の供給を助けました。さらに鰹節の製法を改良なども行い、その評判がたかまり、ついには松島湾漁業組合を結成、組頭の職についた後には、古くからある紛議を解決したほか、魚類の繁殖を行うなどの功績もありました。 | + | |
- | 他にも牡蠣の養殖を薦めて、漁民の困窮を救ったほか、肥料の輸入、蚕業の推進、米殻の改良などを行い、教育を普及させ、学校の基本財産などを整え、公衆の利益のために尽力を注ぎました。 | + | 白石廣造は、埼玉県北葛飾郡行幸村千塚の出身で、父は清兵衛、母は美代子、弘化元年(1844年)12月14日に生まれ、幼い頃から大きな志を抱いていました。7歳の時に両親を亡くし、18歳で横浜に出て、イギリス人やフランス人に航海術を学び、何度も北海道と往来しました。 |
- | そして、このようなすばらしい実績となったために、天皇陛下から藍綬褒章を賜り、表彰されました。 | + | |
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- | 廣造は埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚(現在の埼玉県幸手市)に住んでいた清兵衛の第二子で、母は美代子という名前でした。幼くして大志を抱くも、7歳で頼りの家族を失い、18歳のときには横浜に行き、イギリス人やフランス人から航海術を学んで、たびたび北海道を行き来していました。 | + | |
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- | ===英訳=== | + | === 英訳 === |
- | Kozo Shiraishi(白石廣造) | + | Kouzo Shiraishi was a bold and distinguished individual who always |
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- | In November 1910, he was awarded the Medal with Blue Ribbon by the Imperial Court. According to certificate | + | |
- | + | ||
- | In 1872, he moved to Ishihama in Rikuzen Province for two years to work in the transportation business, bringing in residents, building warehouses, and pioneering regular shipping routes between Tokyo, Sanriku, and Hokkaido to promote the region. | + | |
- | He also spent his own money to build a road between | + | "Kouzo Shiraishi was naturally broad-minded and had early insight into the necessity of convenient transportation for the development of commerce and industry. In the 5th year of the Meiji era (1872), he relocated to Ishihama in Rikuzennokuni and engaged in the shipping industry. |
- | Likewise, he recommended oyster farming to save the fishermen from poverty, imported fertilizer, promoted the sericulture industry, improved rice hulls, spread education, prepared basic property for schools, etc., for the benefit of the public. | + | Indeed, such an honor is truly deserved. |
- | As a result, he was awarded | + | Kouzo Shiraishi was born in Chizuka, Gyokou Village, Kita-Katsushika District, Saitama Prefecture. His father |
- | Kozo Shiraishi was the second child of Seibei, who lived in Gyoko-mura Senzuka, Kitakushika-gun, Saitama Prefecture (present-day Satte City, Saitama Prefecture), | + | ==== 関連資料 ==== |
+ | * [[https:// | ||
+ | * 「(第六六〇號)宮城懸宮城郡浦戸村 従八位 白石廣造」部分 | ||
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