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従八位勲八等白石廣造墓

従八位勲八等白石廣造墓

従八位勲八等白石広造墓

従八位勲八等白石廣造墓
資料番号
場所 石浜墓地
種別  
地区
経緯  (38.3339,141.0969)

画像

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資源情報

原文

白石君広造豪傑士也常以富国強兵宣揚皇威為念博捜殖産興業之法于海于陸施諸事業因以利世益民者極多事聞明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章其功狀曰資性豁達夙察商工業発達須交通利便明治五年移居陸前国石浜従運漕業招徠往民造倉庫関東京三陸北海道間定期航路以計地方振興投私貲修陸羽間道路以便貨物輸送販売海産資地方供給改良鰹節製法昂其声価結松島湾漁業組合薦其組頭解古来紛議図魚族蕃息奨牡蠣養殖且企遠洋漁業救漁民窮其佗輸入肥料奨励蚕業改良米穀普及教育造学校基本財産等皆克至其力洵興公衆利益成績著明仍賜勅定藍綬褒章以表彰其善行嗚呼可謂栄矣君埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚人清兵衛君第二子也母曰美代子弘代元年十二月十四日生幼有大志七歳喪怙恃年十八走横浜従英仏人学航海術屡往来北海道

和訳

白石広造は豪傑の人でした。常に「富国強兵、宣揚皇威」を信念としていました。 殖産興業の方法を海や陸に探し求め、たくさんの事業を施したため、その貢献は極めて多いことが伝わっています。

明治43年11月(旧暦10月21日)には、朝廷より藍綬褒章を賜りました。その功績状によれば、度量が広く、また商・工業発達のために航路の開発を志していたといいます。

明治5年には、陸前の国の石浜に2年間移住して、運送業につき、住民を呼び寄せ、倉庫を造り、関東京三陸北海道間の定期航路を開拓し、地方の振興をはかりました。 また私財を投じて、陸羽間(陸奥国と出羽国)の道路を整備し、貨物の輸送、海産物の販売、地方の供給を助けました。さらに鰹節の製法を改良なども行い、その評判がたかまり、ついには松島湾漁業組合を結成、組頭の職についた後には、古くからある紛議を解決したほか、魚類の繁殖を行うなどの功績もありました。

他にも牡蠣の養殖を薦めて、漁民の困窮を救ったほか、肥料の輸入、蚕業の推進、米殻の改良などを行い、教育を普及させ、学校の基本財産などを整え、公衆の利益のために尽力を注ぎました。 そして、このようなすばらしい実績となったために、天皇陛下から藍綬褒章を賜り、表彰されました。

広造は埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚(現在の埼玉県幸手市)に住んでいた清兵衛の第二子で、母は美代子という名前でした。幼くして大志を抱くも、7歳で頼りの家族を失い、18歳のときには横浜に行き、イギリス人やフランス人から航海術を学んで、たびたび北海道を行き来していました。


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