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従八位勲八等白石廣造墓 [2020/12/20 23:53] – admin | 従八位勲八等白石廣造墓 [2023/09/24 05:08] (現在) – [資源情報] admin | ||
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+ | === 和訳 | ||
+ | 白石廣造は豪傑の人でした。常に「富國強兵、宣揚皇威」を信念としていました。 | ||
+ | 殖産興業の方法を海や陸に探し求め、たくさんの事業を施したため、その貢献は極めて多いことが伝わっています。 | ||
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+ | 明治43年11月(旧暦10月21日)には、朝廷より藍綬褒章を賜りました。その功績状によれば、度量が広く、また商・工業発達のために航路の開発を志していたといいます。 | ||
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+ | 明治5年には、陸前の国の石浜に2年間移住して、運送業につき、住民を呼び寄せ、倉庫を造り、関東京三陸北海道間の定期航路を開拓し、地方の振興をはかりました。 | ||
+ | また私財を投じて、陸羽間(陸奥国と出羽国)の道路を整備し、貨物の輸送、海産物の販売、地方の供給を助けました。さらに鰹節の製法を改良なども行い、その評判がたかまり、ついには松島湾漁業組合を結成、組頭の職についた後には、古くからある紛議を解決したほか、魚類の繁殖を行うなどの功績もありました。 | ||
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+ | 他にも牡蠣の養殖を薦めて、漁民の困窮を救ったほか、肥料の輸入、蚕業の推進、米殻の改良などを行い、教育を普及させ、学校の基本財産などを整え、公衆の利益のために尽力を注ぎました。 | ||
+ | そして、このようなすばらしい実績となったために、天皇陛下から藍綬褒章を賜り、表彰されました。 | ||
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+ | 廣造は埼玉懸北葛飾郡行幸村千塚(現在の埼玉県幸手市)に住んでいた清兵衛の第二子で、母は美代子という名前でした。幼くして大志を抱くも、7歳で頼りの家族を失い、18歳のときには横浜に行き、イギリス人やフランス人から航海術を学んで、たびたび北海道を行き来していました。 | ||
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+ | ==== 関連資料 | ||
+ | * [[https://ndlonline.ndl.go.jp/# | ||
+ | * 「(第六六〇號)宮城懸宮城郡浦戸村 従八位 白石廣造」部分 | ||
+ | * [[https:// | ||
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